前にも書きました。池上線、旗の台駅を降りるとそびえ立つ大学病院。講義にもあまり出席せず、学生時代は本当に勉強しなかった。そんな成績の悪い自分がこのでかい建物に押しつぶされる、そんな幻想に悩まされました。5年生の時には新病棟で臨床実習、6年生の時はこの中の講義室で講義を受けました。
今日のHomeComingDayの式典が行われるのはキャンパスから少し離れた創立50周年記念館。僕自身この建物の中に入るのは初めて。大学卒業後にはすぐに横浜の大学附属病院、そして日赤に籍を移しました。だから大学とは縁が遠くなりました。ましてや患者さんを送るにも遠い。しかし大学の施設はドンドン拡充しているのが判りました。
ちょっと早く着き過ぎた? 10時より受付開始、10時半より入場、式典は11時からでした。今は10時40分頃、ちらほら同級生はいますが、親しかった友人は未だいない....、同級生同士で結婚した親友の奥さんだけが来ていました。パーティ後麻雀やらないなら来ない? 何だよ、それ? 麻雀なんかしないで昔の思い出話をしようよ!
傍らに創立者の写真や遺品がディスプレイされていました。昭和初期と思われる写真も多数展示。そう、今までこんなディスプレイがあることを知りませんでした。そして近くの壁にはこの50周年記念会館の設立に協力した人たちの名前が掘ってありました。僕は全然そんな寄付をしていない.....、ちょっと、まずいかも......。
やがて11時に。会場に入るよう促され、仲の良かった同級生も数名集まり、みんなでまとまって座りました。ただちょっと、座席の間が詰まっていて狭苦しい......。恐らくは在学生のオーケストラが入り、演奏が始まりました。みんな聴き入っています。そう、僕も実は1年生の時だけ友人に引きずり込まれてトランペットをやっていた........。
HomeComingDay実行委員会委員長、学長、理事長の挨拶が進みます。我が大学は医科大学の単科大学から始まり、僕が在学中は歯学部(同級生は2期生)、薬学部(同級生は27期生)があり、その後更に学部が増え、日本で唯一の医科系総合大学になりました。そんな歴史が学長から話しされました。今なお大学は発展しているようです。
卒業25周年と言うことで参加者は表彰されるとの事、後で記念品をもらえるのですが、その中にそんな表彰状が入っているのだそうです。それを代表して各学部の代用者が学長から受け取ります。偶然にも薬学部の代表は僕の仲良し、全寮制の1年生の時に同室だった男でした。後で聞いたら、さっき突然前に出てくれって言われたんだって。
続いて校歌斉唱。グリー・クラブのメンバーが前に出て先導します。だけど.......、本当に恥ずかしい話ですが僕は校歌を知りません。隣に立っている親友に聞いたけれど、彼も知らないって。ホッとしました。確かに入学式と卒業式では歌っていたみたいだけれど、その時も下を向いていたはず。高校の校歌は3番まで暗記しています。
イベントのパンフレットには同級生が近況報告を、他の学年の同窓生は広告を出すことが出来るようです。僕も近況報告を書きたかったのに、ふと気付いたら締め切りを過ぎていました。残念! この先生も母校の先輩。あなたの心にメス?ちょっと僕には意味不明......。でも在学時に形成外科の講座があったのは全国で我が母校だけでした。
エイ、エイ、エイ! のかけ声で鏡開きとなりました。誰か一人酷く濡れていたみたい。この後、立食で懇親会となりますが、今日はあまり飲まないようにしようと思います。別に車で来た訳ではないけれど。ここには医学部卒業50周年の大先輩も。僕の卒業50周年? 77歳? いや~、どう考えても生きてないよ.......。
各学部ごとに記念撮影、恐らく同窓会新聞に掲載されるのでしょう。今日の医学部同級生は約30名、約1/4くらいしか来ていません。大学に残っているのは数名、もう残っているメンバーは准教授や講師です。各科の責任者、重責を担いながら第一線で働ける事に、正直言ってやや嫉妬? 最先端の医療に接する事に対しての羨望があります。
会場内数カ所に設置されたモニターには卒業アルバムの写真が流されます。みんな若い....、僕もたっぷり髪の毛がありました。悲しいことがあると♪ 開く革の表紙♪ また家に帰ったら卒業アルバムを見るんだろうな? 革の表紙ではありませんが、僕らの卒業アルバムは確か6万円、専属のカメラマンが1年間、病院の中を廻っていました。
最後にチアリーダーのパフォーマンスがありました。恐らくは現役の学生さん? ずいぶん華やかになりました。僕らの時代は医学部、歯学部、薬学部だけ、でも薬学部は女子の方が多かったようです。我が大学は体育系のクラブ活動も盛んなところ、医科系でありながら通常のクラブ活動でないものはなさそう。僕もバスケット部にいました。
立食で懇親会が開かれました。昔の話に花が咲きました。仲良しもだいぶ集合。しかしちょっと訳あって少し早めに式典会場を後にし、キャンパスの方へ向かいました。先ほどの大学病院の横を通り、奥に引っ込んだ講義棟を目指します。そう、この病棟ももう25年以上? 実は僕もこの病院で鼻中隔彎曲症の手術を受けました。痛かった!
ふと見ると大学の9号館だって。確かこんな建物は僕の在籍中にはなかったはず。やはりあちらこちらに大学は増殖しているそうです。今日の学長の話にありました。我が大学は私立では慶応、早稲田に次いで国からの補助金が多い? 世界の大学ランキングでは359位、それも医療系大学では国内トップとのこと、成長しているようです。
かつて古い病棟があったところにはまた更に新しい病棟が。確か救命救急センターがあるはず。5年くらい前にこの新病等の中で同窓会があったのですが、その時は何処から入ったら良いのか? ずいぶん右往左往して困った事を覚えています。でも徒歩圏内、更に少し離れたところにもう一つ病棟があるそうな。
かつてはこの奥のスペースが大学スタッフの駐車場でした。その中にいつも停まっている白いポルシェ911、当時の外科の講師の先生(恐らくは今の僕よりはその時の講師の先生の方が若かったはず)の車でした。そう、それを見て僕もいつかはポルシェを手に入れる! そう誓ったものでした。もう新病棟に変わりその駐車場もありません。
確かこの辺に老夫婦でやっていたコピーやさんがありました。優秀な同級生のノートのコピーがもう刷り上がっていて、試験前になると「医学部5年生の呼吸器内科を下さい。」と言うとポンと出てくるしくみになっていました。だから試験前はお金がかかる。しかし今やそのコピー屋さんもなくなってしまったようです。今はどうしているの?
5年間通ったキャンパス、本当に「お帰りなさい!」と言う言葉が胸に滲みます。ううっ、ここでちょっと涙ぐんでしまいました(本当です)。昔の懐かしい光景が本当に走馬灯のように浮かびました。2年浪人して、普通の大学より2年永い、だから僕の卒業時の年齢は26歳でした。
ああ、この辺の雰囲気は25年前とちっとも変わりません。確か卒業式の後はこの辺でみんなで写真を撮っていた。そう、その頃は未だデジカメなんてありませんでしたから、プリントのカメラでした。キャンパス内にはテントが張られ、もう大学祭の雰囲気が満喫出来ます。
この建物が講義棟、1学年120人が一度に入れる講義室がありました。でも.....、精神科の講義なんかは10人もいなかったみたい。代返あり、代わりに出席カードを出してもらうなんてことも結構していました。そう、出席にはあまり厳しくなかった、国家試験が通れば良いよってなスタンスだったように覚えています。
この噴水に落ちた奴がいたなぁ.....。この噴水の廻りで卒業アルバム用に学年全員の集合写真を撮りました。正面突き当たり、木の向こう側が実験棟と教授室。ボロボロの点数を取ってよく教授室に謝りに行きました。解剖学の教授には助けてもらった....。そんな僕が今は看護学校で解剖生理学を教えているんです。おかしなものですね......。
本を売っている模擬店がありました。実はこのドラマ、著者は我が母校の教授、そしてロケ地は我が大学病院とのことでした。本日も撮影のために紀香さんが来ているのだとか? 今週から始まります。そして僕の友人のピンクのディアブロもこのドラマに出てくるとか。このままでは医療は崩壊する、そんな警告を発するドラマなのです。
実は式典を早めに抜け出してこちらに来たのは相談コーナーがあったからなのです。同窓生子女の受験相談コーナー.....、ここでしばし待たされました。相談に来ているのは僕の前も僕の後も同級生、みんなそんな年齢なのでしょう。だからあと○年経ったらだいぶ楽になる、同級生とそんな話をしていました。
僕が4年生の時に講義を受けた教室が空いていたのでそっと入って写真を撮って来ました。机の天板こそ新しくなっていましたが、それ以外は昔のまま。懐かしいです。でも本当、正直なところ好きな外科系の講義は受けましたが、内科系はあまり出なかった。内科系はほとんど赤点だったように記憶しています。
この後、大学病院のレストランで同級生の主任教授就任を祝う会が催されます。この辺で少しみんなとダベりながら時間を潰しました。25年ぶりに逢う懐かしい女性も。奥さん元気? って尋ねられました。キャンパス内には今風のお姉ちゃんもたくさん。新たな学部も増え、学生数も相当増えた分、ちょっと人種も変わって来た?
キャンパス内禁煙だって? 僕の時代はそうではありませんでした。今から25年前、当然今ほどスモーカーは肩身が狭い訳ではなかった。手術室の控え室だって禁煙ではありませんでした。ある内科の助教授はくわえ煙草で外来診療をやっていた、そんな時代でした。今では到底考えられない、本当に僕は良い時に煙草を辞めました。
さてみんなで移動、午後3時半から二次会が始まります。キャンパスから歩いて3分、エレベーターに乗って17階へ。相変わらずエレベーターはなかなか来ない、イライラしていた当時と変わりません。さて先ほどの病院の最上階、目の前を遮る物がないこの景色です。夜景もきれいです。遠く東京湾の海も垣間見えます。
こちらは品川方面、今日はお天気にも恵まれました。この先に回り込むと丸の内界隈、東京タワーも見えます。昭和50年代にこのビルが出来て、その後高層ビルはこの周囲に出来ていない、だから素晴らしい景色です。乾杯をして二次会の始まりです。さっきのビュッフェではあまり食べなかった。こちらで少し食べましょうか?
一番最初の写真、大学病院を見上げていた道がこの写真の真ん中の道です。奥の白く細長いのが池上線、大井町線の旗の台駅、古い電車のドアのそば~♪ 二人は黙って立っていた♪ 西島三重子の「池上線」と言う曲がありました。野口五郎の「私鉄沿線」とともに結婚前の女房と過ごした僕の青春時代とオーバーラップする曲です。
ごめんね、顔出しちゃったけれど、良いでしょう? 大学病院のHPには二人とも顔が出ているから.....。僕らの学年の出世頭の二人です。整形外科の主任教授とリウマチ・膠原病の我が大学No.1、彼らは僕らの学年の誇りです。大学に残ってもポストがない? 首になった? そんな話の枚挙に暇がありませんが、彼らはそれを勝ち抜いて来た?
会費を集めてまたビュッフェです。僕の学生時代、某大学病院のレストランに一流ホテルが入り、「だから△△大学はダメなんだよ。」なんてみんなで言っていたら、自分の大学病院のレストランに帝国ホテルが入ってしまいました。ランチは一番安いセットで当時950円、かなり高かった。僕は駅の方の学生向きの定食屋に行っていました。
一人ずつ近況報告をさせられました。恐らく開業は僕が同級生の中で一番早い? でもやはりそんな中で出て来るのは勤務医の窮状、みんな大変だと言っていました。開業医も結構大変だけど、やはり勤務医に比べれば......? ふと考えてみました。20年以上あのまま日赤に勤めていたら? 断言出来ます、僕は今頃生きていない!
楽しいひとときを過ごしました。2時間懇親会を楽しんで解散となりました。仲の良い3人で一緒に帰りました。朝10時半にはこの辺にいた、だから7時間くらい大学にいたことになります。ずっと立ちっぱなしだったから腰が痛いよね? みんなで情けない限りです。25年後また同じ集まり? ど~考えても無理だ! メンバーもだいぶ減る?
先ほど書いた記念品の表彰状です。理事長、学長名で盾に入っています。25周年がSilver、50周年がGoldだそうです。Goldのメンバーにはかつての教授、そして今は同窓会長を務める先生がいらっしゃいました。ホームカミングデー、「お帰りなさい!」、嬉しい言葉ではないですか? やはり苦しかったけれど学生時代が良かった?
それともう一つ入っている記念品はネクタイです。女性用は何だったんだろう? 校章が入り、ストライプの間にはずらりと◯◯◯◯ Universityと書いてあります。さっき模擬店で売っていましたけれど、1本3000円、大奮発ですね。僕の趣味としてはもうちょっと派手なのが良いのですが、同門会など、大学の集まりに絞めて行きましょう。