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別れ……3


ちょっと不謹慎な内容です。怒られてしまうかも知れません。読んで不愉快に思う方もいらっしゃるかも知れません。だけどこれは僕の本音です。嘘、偽りはありません。このホームページは僕の本音を書くところですから…。そして喪に服すこともなく、また3週間後には海の外へ出掛けました。怒らない人、不愉快にならない人だけ読んでください。そうでない人、どうぞご退出ください。

 この内容を自分のホームページに書くかどうか? 少し悩んだのですが、やはり自分の考えを吐露したくて書く事にしました。母が亡くなりました……。僕は両親とも亡くしたことになります。これでもう僕は孤児? 来年僕自身が還IMG_9730.JPG暦を迎えるに当たって、特に自分の生活が変わる訳でもありません。少し人生の節目にはなるのかも知れませんが、特に気落ちするでもなく、仕事や家族との関係に何ら変化はありません。これから母のものを整理したり、またそれほど多くのものを相続する訳でもありませんが、面倒な相続手続きはしなければならないでしょう。葬儀は人並にはしたつもりです。もっとも開業医と言う仕事をしている手前、告別式の半日だけを休診にしましたが、僕自身が走り廻っていろいろ準備をした訳でもありません。女房には母の葬儀に関して苦労を掛けましたし、良くやってくれました。任せっきりでした。我が女房にはただただ感謝です…。


 夫、つまり僕の親父と死別して28年、それまでは酒乱の親父に振り回されて、或いは幸せと思っていたのかどうか分かりません。父との死別の後はしばし悲しむ間があったのか? 一方僕はようやく胃がんや乳がん、大きな手術の執刀を任されるようになってこれから外科医としての人生を歩み始めたばかりの一人息子がその病院を辞めて診療所を継ぐ事になり、嫁と2歳と0歳児の二人の孫といきなり同居を始め、恐らく母にとってはかなり生活が変IMG_9734.JPGわったのではないかと察します。一方で好きなゴルフに毎週のように通い、更に別荘にも通い、時には旅行や観劇、音楽会にも出掛け、また一人息子が診なければならないような大きな病気はなく、自身では様々な訴えを投げかけるにも関わらず、医師である一人息子の診断ではほぼ健康だった20数年間は、それは大いに謳歌する人生と言って良かったのではないでしょうか? なかなか一人息子よりも後に2男1女になった孫に割と厳しかったばぁちゃんも、あまり何かに縛られる事なく、好きな時に好きな処へ出て行ける立場は恐らく居心地が良かったのではないかと思っています。息子には世話になりたくないと独立した家計で、その代わり同じ世代の人よりは自由の利く晩年だったと思います。
 自らの母(つまり僕の母方の祖母)に良くしてくれた病院を終の住処と決め、一人息子の反対を振り払ってその比較的安住だった我が家から出て行く決心をしてから、大きく母の人生が変わったように思えてなりません。今にして思えば恐らく 神経障害性疼痛 ‘と言う、今でこそ良く知られるようになった、命に関わらない病気を苦にして我が家を出て行ったのが、母の人生の大きな岐路だったと思います。医者たる息子にも治せない、一流の病院を紹介して相談しても一向に好転しない病気に悩ませてしまったのも、或いは僕の力不足に因るところなのかも知れません。半年間は母を引き止めましたが、更に引き止める事が出来れば晩年の4年間は、或いは違った人生だったのかも知れませんが、今となっては引き返す事の出来ない結果となりました。思うに自ら身辺整理を始め、好きだった車を降り、行き来するのに疲れた別荘を売り払い、大きなダイヤの指輪を孫娘に与えた頃からは母なりに覚悟は出来上がっていたのでしょう? それもあなたが選んだ人生、息子がそれを間違っているともっと強く止めるべきだったのかも知れません。これまた後戻りの出来ない事実ではあります。3年ほど前から完全に寝たきりになり、ついには息子の顔も判らない認知症になり、結局晩年は施設で過ごす事となりました。そして積極的な治療を望まないリビング・ウィルの内容をそのまま引き継いだ息子が看取る形になりました。あなたの選んだ人生の方向、息子の入り込む余地はありませんでしたが、母なりに満足出来ていたと考えています。


IMG_9735.JPG さてその後の葬儀、母の未だ元気だった頃の遺言に従い、指定された葬儀場での通夜、告別式となりました。そんな時、私の所属する地区医師会の事務長は本当に頼りになる存在でした。医師会で役職を勤めたような重鎮が亡くなった時のノウハウを持ち合わせるところ、たかだか小さな診療所で何とかやっている医師会員の母の葬儀などは、その今までのやり方を以ってすれば私の母の葬儀についてのアドバイスはそれほど難儀なものではないのかも知れません。以前は皆さんがこうしていましたよ と言うアドバイスをたくさんいただきました。まずはどの程度の人にお知らせをすべきなのか? 葬儀は身内だけで済ませました、お香典、お供物の類は辞退申し上げます、 と言ったようなお知らせをしばらくしてから受け取ることもしばしばありました。もちろんお通夜、告別式の日時、場所を何時いつ何処どこでと言うお知らせをいただいたこともあります。うちの母は? 医師会内で割と幅を利かせていた父は、医師会の後輩の仲人をしたこともあります。医師会の先生方の奥様たちとも母は交流がありました。医師会の先生の奥様達と頻繁にゴルフへ行き、あるゴルフ場の女性会員の会にも所属していました。もし身内だけで済ませました と言うお知らせを後で出した場合に、「何故知らせてくれなかった!?」と僕が叱責される場面も予測しました。親戚にもある程度知らせなければならないと考えました。結局お通夜、告別式のお知らせは多数出す事に…。本当にこんなことしてもいいの? と思うまま…。

 まずは母が懇意にしていたお寺に報告しました。戒名? 当家が檀家であるお寺さんの宗派では戒名ではなく法名(ほうみょう)と呼ぶのだそうですが、父と同じ位の法名をいただくこととしました。お坊さん自ら「高いですよ。」と言われる価格、もちろん承諾しました。正直なところ世の中、そう言うものなのだと初めて思い知りました…。宗教法人て無税なんでしょ? 公明党の存在価値はそこにある? そして母が希望した葬儀場は亡くなった当日連絡したにも関わらず空いているのは1週間後!? この暑いさなか、遺体をそこまで置いておけるの? ちゃんとそんなノウハウもあるようです。僕の葬儀について女房に頼んであります。僕が死んだらお通夜は土曜日、告別式は日曜日、友引でも構わないから……、そんな我が儘は到底通らない? 友引にはその葬儀場、聖苑は開いていない? 僕の場合には霊柩車は親父の時みたいに白木の高い奴ではなくて良いからキャデラックにしてくれ……、僕も希望している母と同じ聖苑は式場と火葬場が併設しているから霊柩車は使わない? 別にお香典は要らないし、普段着で構わないから車仲間に多勢来てもらって出棺の時には皆んなでフェラーリやランボルギーニのクラクションを鳴らして見送って欲しい……、そんな希望は到底通らない事を思い知りました。ちょっとまた計画をしなおします。100台のスーパーカーが並べる道の前にある葬儀場、110番通報されて警察が飛んでくるだろうな…? ↗︎


 幸い娘の勤めるイベント会社、娘はウェディング・プランナーをやっていますが、その会社に葬儀の部門もあるそうな、娘を通じてその会社にすべてを任せる事にしました。今まで病院勤め時代にイヤと言う程亡くなった患者さんを見送っていた経験上、そんな葬儀屋さんがありとあらゆるノウハウを持ち合わせ、こちらの疑問、提案について即答で答えてくれることは充分に知っていました。死亡診断書を書いて、「後は葬儀屋さんにお任せください、全て上手くやってくれますから。」僕自身が亡くなった患者さんの遺族にしょっちゅう申し上げていた言葉です。もちろん母の葬儀についても全てを任せ、細かいところで希望を出すのみ、その蓄積されたノウハウを用いてトントン拍子にことは進み、準備は整いました。
 さてお通夜当日、たまたま元地区医師会会長が亡くなった時と同じ会場、その時は大きな部屋にも関わらず外にズラッと参列者の長蛇の列が出来ましたが、母の葬儀についてそんな大きな部屋しか空いていない、小さい部屋を望むなら式は更に先になる? そんなことで到底座席が埋まる事もないであろう大きな会場で母のお通夜、告別式は執り行われることになりました。ところが当日…、エッ!? あの人が? と言うような人達が多勢お焼香に来てくれました。とても母とは面識のない医師会の先生方、製薬メーカーの担当者達、昔当院を担当していた卸の担当者達、本当に! 本当に恐縮しました。到底埋まるはずのない多くの座席、殆ど埋まってしまいました。結局身内だけで と言う遠慮を取り下げた結果、多くの人に参列いただき、僕としてはただただ申し訳ないの気持ちだけ……、お焼香の際の会釈には人が見たら笑われるのではないかと思えるくらい、自然に僕の頭は下に下に下がりました。10数年ぶりに会う昔の担当者? 結局仕事関係、友人関係の連絡網がフルに働いて母の逝去を広く知らしめてしまった……、そんな印象を持ちました。本当に申し訳ない!!

 泣いてくれる人も多々いらっしゃいました。「仲人をしてもらったんだよ!」とおっしゃる人もいらっしゃいました。エッ? 先生も? その先生についてはその事を初めて知った次第です。本当に驚くと同時に申し訳ないという頭で目眩すら感じました。参りました…。IMG_9728.jpg
 そのイベント会社の担当者の提案で、思い出コーナーと言うものを作りました。生前の写真を10数枚飾って並べ、参列していただいた人達にお焼香の前にちょっと見ていただくコーナー、かつての友人の葬儀の時もありましたが、僕自身は式の前にそこまで頭が回りませんでした。自分の葬儀用には少し写真を選んであるのに…。母の幼少の時、二十歳の時、そして父との結婚式の写真、親戚と集まった時、父の持っていたヨットの前で、夫婦並んだツーショット数枚、そして僕と女房と3人の孫と食事をした時の写真、そして母が可愛がっていた2匹の今は亡き猫達の写真、更にかつて母が乗っていた、そして今は僕が普段から乗っているシルバーのフェアレディZのミニカー、そして葬儀会社の担当者自ら手書きで描いてくれた今の愛犬の絵、花と一緒にちょっとホッとするような、個人を懐かしむようなコーナーを設けてくれました。僕の時はディアブロのミニカーを置かなければ……。そして翌日の告別式、ウィークデイだっただけに、前日日曜日のお通夜ほどではないにしても、それにしても多くの人に、ましてや母と面識のない僕の友人まで駆けつけてくれました。本当に! 本当に申し訳ない!!     
 つくづく思いました。今後は訃報を受け取る度に今回の母の葬儀に参列いただいた人であるかどうか? 名簿を都度確認しないと。そして自分が行ける範囲で葬儀に出向き、診療でどうしても行けない時はお心付けだけでも何とか送らないと、そう思いました。これからこの人達にお返しをしなくてはならない、それも大変な仕事になりそう、悩み事が増えます。
 そして火葬、この聖苑でもやはり専門の担当者がいます。如何にも手慣れた仕事さばき、ちょうど良い具合に焼くのはそれなりのやり方、ノウハウがあることを知っています。火加減が強すぎると骨も何もなくなってしまう、生焼けなんてのはとんでもない、恐らく身体のそれほど大きくない母は焼くのにそれ程時間はかからないはず、むしろ僕の場合は身体はそこそこでかいし、何さま僕は骨が太い……。もし心臓のペースメーカーが入っていれば火葬する前に取り外さなくてはならない事を知っています。外科医のいない病院で亡くなった僕の患者さんの遺族が、「自宅に帰ってからTak先生に連絡して取ってもらいなさい。」と言われ、夜の11時過ぎにご自宅に僕が出向いて取った事がかつてありまIMG_9738.JPGす。結局その料金は請求しなかった……、だってそんな初めての仕事の価格設定をしていなかったですから(><) 母にはそんなペースメーカーや機械は身体に入っていません。でもその火葬の担当者が言われました。母の大腿骨骨頭を指しながらこれは骨粗鬆症だと。まぁ、寝たきりの83歳の母に骨粗鬆症がない訳がないと、それは医者として当然納得です。僕の大腿骨骨頭は重いだろうな? 息子や娘に言っておこう、「重いだろうけど落とすなよ。」って。
 そして母は骨になって家に帰ってきました。仏壇を拝まない僕もその後なるべく線香を上げるようになりました。父の墓参りもなかなか行かない、複数の不良の悪友からも「先生、お墓参りは行かなくちゃ駄目だよ。」と何回も言われています。そう、今後はもう少し行こうか? 車で15分の処にお墓はあるのだから。

 母の遺影はずいぶん若い頃の写真を選びました。恐らくこれは50歳代後半? 59歳にして亡くなった父と写真を並べる手前、あまり年老いてからの写真ではバランスが悪い? そしてほんのスナップの写真を葬儀屋さんに渡して、恐らくはフォト・レタッチソフトであるPhotoshopを使って? きれいに修正してくれました。僕の女房が感嘆するほどの出来映え? 小さい奴は仏壇に飾って、僕が線香を上げる度に見る訳ですから。だから僕もあまり髪の毛が薄くなる前の写真を選んでおかないと。

 そうしてただただ参列していただいた皆様に恐縮するまま母の告別式まで終わりました。そこでそろそろ収支の計算…、母が亡くなって一番最初に支払いをした死亡診断書の書類代に始まって、お坊さんへのお布施、お通夜、告別式でお出しした食事代から聖苑への支払い、そして葬儀屋さんへの支払い、僕も自分が死んだ時に女房が払うお金をある程度は用意しておかないと……。何さま僕が死んだ瞬間に銀行は僕の通帳をすぐに手が付けられないように閉じるだろう? 母が亡くなった翌日にこれからいろいろ準備する旨銀行の担当者にそれとなく話した次の瞬間には母の通帳を閉じる旨の話しが、本当に瞬間に担当者の口から出てきました。恐らく僕の生命保険の保険金が降りるのは当分先? ましてや銀行からの借入金が残っていれば、少しでも取り損なわないように奴らは何でもするだろう? 銀行が家の前に杭すら打ち込むと聞いています。未だ借入金が相当額残る手前、「いざとなりゃ死んで保険金で耳を揃えて返してやるよ!」 時々イヤな事を言う銀行の担当者にそう啖呵を切っています。こうして母の四十九日を待つ事になりました。

 こうして葬儀が終わり一段落、おふくろは…、本当に親父の墓に入りたかったのだろうか? もちろん母の生前の普段の話しから、父と同じ墓に入る事は当然であるかの如く話題にはなりませんでした。恐らく今回のやり方で母は満足してくれているだろう、あまり自信はないけれど、むしろそう自分に言い聞かせています。一方で自分より相当年老いてそばに来た母の事を父はどう思うのだろうか? 実は今、僕は父が亡くなった年齢、自分自身還暦を迎えるのが一つの壁と考えているのです。仲の良かった、そして親父が可愛がっていた僕の従兄弟も59歳、還暦を待たずして亡くなりました。一方で父の兄である僕の叔父は82歳で他界、還暦を迎えれば僕は82歳まで生きられる? まぁそれを強く望むものでもありませんが。82歳で今の仕事をしていなければならないとなると、それも辛いものがあります。取りあえず子供達が皆一人前で仕事をして一人立ちしてくれればそれで良し、東南アジアへ移住なんて夢は到底叶わないのか? 82歳でフィリピンの海の青い処に棲んでいても、それはそれで厳しいものでしょう? 自分の死にざま、最近は本気で考えるようになりました。
 その後ある時、ふと自分自身の事を考えたことがあります。僕の大学の支部の同窓会、医学部の同窓会というのは通常の文科系やその他の学部、或いは中学校や高校の同窓会と異なり、担任やゼミの先生を囲んで酒を飲みながらワイワイ騒ぐ前に必ず学術講演会があるのです。つまり勉強会が…。特に僕の大学では同窓の出世した教授を招いて、その先生の専門分野の話しを聞いて、ましてや最先端の話しを聞いて自分たちの知識をUpdateするのが習わしです。近々の同窓会でも、たまたまある分野で世界的権威になりつつある僕の同級生の話しを聴きました。もちろん勉強をしなかった僕よりは学生時代の成績は遥かに上、だけどたまに雀荘で見かける事もあり、そして一緒に麻雀をしたこともある同級生でした。彼は大学院を出て早々に学位を取得し、海外留学もし、一流病院に勤務し、そして大学病院の副院長まで勤め、更に彼のやり方に海外も追随するような権威です。それに対して僕は……? 大学病院の外科に勤め、ようやく一生懸命やっていることを認められるようになり学位取得のためのテーマ(胃潰瘍でした)も決まりつつあって実験室のネズミと格闘していた頃、「家から遠いお前の大学病院では今の診療所で開業した時に患者を送る事が出来ない、M病院へ移れ。これは親父の命令だ!!」 当時はもちろん携帯電話はない、家には女房がいるはずなのに、大学病院の病棟でその親父からの電話を取りました。寝耳に水でした。何の予告もなく…、そう言われて仲人をしてくれた教授に不義理をしてまで大学病院を辞めました。先がそう長くない僕の親父が自分の先行きを察知してそんな命令を僕に下しました。嫌だと言って逆らう事も出来たのかも知れません。一方「○○学教室(基礎医学)へおいで、そうしたら4年で学位(医学博士)をあげるし、海外留学もさせてあげるよ。S女子大卒のお嫁さんも紹介してあげるよ。」あるツテからそんな話しがあったのも事実なのです。もうその時既に今の女房との付き合いも永く、今の女房と結婚する事は本人に告げないまでも心に決めていた僕にとって’S女子大卒のお嫁さん’はそれほど気の引かれるものではありませんでした。顔写真は見たかったけれど…(^^;) それに僕自身先の永くない親父の診療所を最終的には継ぐ手前、基礎医学でゆっくりしている暇はなかったのです。開業出来る知識と技術を早く習得するのが僕の人生の最優先課題でした。そしてM病院へ移ってしばらく、こちらでもようやく胃がんや乳がんの執刀を任されるようになり、外科医としての下積みがある程度実を結んで来た時に親父は他界、結局外科医としては成就しないまま(恐らく外科医に成就という言葉はないのかも知れませんが)開業して今に至りました。もし逆らって大学病院に残っていたら? たぶん開業は出来なかった? 手術の腕は上がりました。大学病院で乳がんの執刀が出来るのは月に1-2例? 僕はM病院で月、水、金の午前午後で1例ずつ週に6例、月に25例くらいの乳がんの執刀をしていました。20倍の症例経験…、それでは習得する技術の差は歴然でしょう? だけど、その同級生の華々しい経歴と自分を比較して、何だ? 僕は結局酒で身を滅ぼした親父に振り回されただけじゃないか? そう思っていたのを教授になった同級生を見てなおさら再確認したものでした。僕に遠慮をしない大学の先輩は言います。「お前がM病院に残って食道がんや膵臓がんの執刀をして、今のお前に何の役に立つんだよ!? お前の親父は良い時に死んだんだよ!!」 町医者として地域に根付き、地元のじいちゃん、ばぁちゃんの血圧や胃袋の中を診て、喜んで通ってもらう、それも或いは幸せな人生なのかも知れません。その同級生の教授はもちろん学会で海外に出て行くかも知れません、でも……、彼は青い海を見ながらビールを飲む事はなかなか出来ないでしょう? 彼よりは或いは僕の方が自由なのかも知れません。そう、カスはカスなりに地元で一生懸命、だけどのんびりやっているし、まぁ楽しんで少し人生スローダウンも出来ているよ! 僕なりの負け惜しみです(><)

IMG_1599.JPG そして…、四十九日が過ぎ、母の納骨の日が来ました。また同じお坊さんに連絡して納骨の日取りが決まりました。女房と長男、そして仕事で地方に出ている次男も帰京し、身内は僕と四人だけで納骨に出向きました。娘は結婚式の仕事が入っていて来られない? お前の親父の納骨には仕事を休んで出て来いよ!!
 折悪しく雨の日、もう母が懇意にしていた墓石屋さんのご主人が準備万端整えてくれていました。「この奥さん、よくフェアレディでお墓参りに来ていたよね?」 ご主人はそう昔を思い出すように言ってくれました。寝たきりになって3年、少なくも3年は墓参りに来ていなかったはずなのに覚えてくれていたようです。その代わり息子はランボルギーニに乗って来たことはない…。まぁ、本当に申し訳ないことなんだけれど、本当に車で家からここまで15分で来られるのだけれど、僕が墓参りに来たのはこの28年で何回? 確かに数える程しかで来ていません。そう、散々親父に振り回されたから? 僕の周りを見てみると、悪い奴程頻繁に先祖の墓参りに行っている? そんな印象を持ちます。かつては不謹慎なことに、僕は読経を訊いていると可笑しくて吹き出してしまいそうになることがありました。僕の親父もあまりお坊さんを信じていなかったみたい。信心深く、しょっちゅう多額のお布施を出す自分の母親(私の父方の祖母)に対して、「坊さんはいざと言う時に母さんを助けてはくれないよ!」と凄い勢いで怒っていたのを僕は覚えています。今となってはどれくらいの額か判りませんが、祖母は相当な額のお布施を払っていたようです。その坊さんが親父の診療所に膀胱炎の治療をしに来ていたようで、それを自分の母親に告げて文句を言っていました。お坊さんだって人間だし、病気にも当然なりますよ! 祖母の言い返しの弁でしたが、親父の行為は医師の守秘義務違反になるのではないでしょうか? ↗︎

 さて、もうお墓に我々一家が着くと、ちゃんと蓋を開けて、後は骨壺を安置するだけのところまで準備は出来ていました。僕がこのお墓の下を見るのは親父が死んだ28年前以来? その時の記憶は全くありません。えっ!? こんなに深いの? 人間一人が中で立っても頭が出て来ない深さ? 本当におふくろは此処に入りたかったのかなぁ? ま〜た親父にいじめられるかも知れないなぁ? 何とも不思議な思いです。長男がその中に入ってみました。お前もいずれその中に入るんだぞ? その前に父さんだけどな? 僕も正直、あまりここに入りたくない…、ま〜た親父と喧嘩になる……、チラッと海に散骨なんて手もあるよな? 僕は海が好きだから……、そんなことを女房につい漏らしました。まぁ、28年間、ここにIMG_1590.jpg親父は一人で待っていたんだな? おふくろが来るのを待っていたのかな? おふくろが来て喜んでいる? 今迄一人で寂しかったのかな? と思ったら何と!! もう一つ骨壺がある? えっ? えっ? えっ? 誰? 誰? 誰? 分骨で小さな骨壺だけど、もう一つ壷がありました。誰だよ? 聞いてないぜ? この墓は次男である僕の父が本家の墓に入れないため、父が亡くなった28年前に僕の名義で母方の墓地の隣を分けてもらって造ったもの、少なくも28年前からしかないはずの墓、それ以降に亡くなった人? 隣に母方の祖母が眠っていますが、まさかおふくろがあの親父と自分の母親を一緒にする訳がない! 誰だよ? その後亡くなった親父が可愛がっていた僕の従兄弟の分骨? だったらおふくろは僕にその旨言うはずだろう? 僕に言い損ねていた? 親父が一人では寂しいだろうから分骨してもらった? それ以外全く心当たりはないし、その墓石屋の主人に訊いても判らない? え〜っ!? ってことになりました。

 こうして二度目の親の旅立ちを見送りました。次は自分だな? そう思っています。女房が僕より先に と言う事は一切想定していません。子供にも長生きしてほしいと思います。その一方で自分が長生きするとは思えません。医者の不養生、いろいろありますから。親父と並ばないように59歳のうちは気を付けようと思いますが…。

IMG_1602.JPG 結局あんな、そんなで母の葬儀から納骨迄無事に済みました。本当に女房には世話になりました。おつかれさま! 親の死に目に遭えない職業? 医者はそういうものらしいですが、僕自身父の時も母の時も死に目に遭えました。それは幸せなことなのか? 納骨の後、一家四人、娘抜きでしゃぶしゃぶを食べに行きました。好きなだけ食べていいぞ! 食べ放題の店だけど…、未だ泣く事もない母との死別でしたが、やはりストレスはありました。患者さんの遺族には良く言います。「いろいろと大変ですね? 遺族の方々が身体を壊さないように。人一人亡くなるってことは大変な事なのです。全ての事が片付いてちゃんと落ち着く迄、3年かかりますよ。」って。これは事実だと思います。僕自身これから10ヶ月以内に相続に関する事を整理しなければなりません。税理士さんにはもう既に準備をお願いしていますし、折悪しく相続税法が改正され、また下らない事を言われると税務調査官と喧嘩になりそうです。もうクリニックを法人化して10年、未だ一度も税務署が調査に来た事はありません。悪友からは「10年も税務調査が来ない経営なんて駄目だ!!」と言われています。確かにそうなのかも知れません。結局法人ではなく、個人の方から入られるのか? 最後の税務調査の時に切れて以来、税務署に関しては自分を抑えきる自身がありません。忘れもしない、今から十数年前の法人ではなく個人経営の時代の税務調査の際、いろいろ言われた挙げ句僕が切れて「あんたも給料の4割を持って行かれてみろよ!」と言った僕に返って来た上席調査官と言う地位の男の言葉は「僕だって住宅ローンを入れればそれくらい持って行かれてますよ!」でした。??? 大したことのない、修正申告をして6万円の内容を見つけたために来た調査でした。初めっからそれを言えば良いだろう? その前に根堀り葉堀り(葉の字はこれで良いの?)下らない事を訊かれた挙げ句の僕の言葉でした。こんな程度の奴に僕の母親の件でいちゃもん付けられるとどうなることやら……? ↗︎

 さて、後は告別式に参列していただいた方々にお返しを送って、取り敢えず近々の僕の医業以外の仕事は一段落、もう名簿はほぼ出来上がり、女房に選んでもらうお返しの品と抱き合わせにするだけです。女房にはもうひと頑張りしてもらいましょう。
 いろいろと不謹慎な事を書きました。笑って見過ごしてやってください。僕も人から言われます、大変でしたね? って。恐らく大変だったのは女房だけ、これまた不謹慎な言い方ではありますが、母が認知症になって一人息子の顔が判らなくなった時点で、私の母は亡くなったに等しい状態と考えてしまいます。だから認知症の治療は大切、早期に治療を始めないと、遅れて治療を開始した分は後の治療でIMG_9740.JPG取り返せないと言うのが現在の一致した見解です。入院にて他の病院へ治療を任せた手前、僕の立場から認知症云々は言えない状況でした。ましてや母が自ら入院を選択した手前、他の人に言っていますが、母が選択した以上、僕自身には自責の念はない、叔母にも僕を責めないでくれと言ってあります。母の死後間もなく、一度だけ、ちょっと母を思い出しながら夕方のベランダに出て空を眺めたことがあります。何とも言えないおかしな空でした。大地震でも来る? 慌てて部屋に戻り、携帯電話を持ち出して写真を撮りました。
 僕が患者さんに時々言う言葉です。「病床の人が亡くなるちょっと前、認知症の人でも、意識のない人でも、そばにいるとほんの一瞬、本人の意識が戻って愛している肉親に微笑みかける時がある、その瞬間を大切にして!」 って。不思議ですが、患者さんで何回も経験しています。肝性昏睡の父にはその瞬間がありました。確かに僕に微笑みかけました。しかし期待していた母にはそれがありませんでした。もう既に僕の中では母は死んでいるから? あまりそばにいてあげられなかったから? しかし後悔の念も自責の念もありません。母上…、おつかれさまでした、ゆっくりお休みください。時々墓参りには伺いますから…。