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自分の古巣に思う

 過日、僕の勤めていたM病院のOB会がありました。大学病院を退職し、約1年半を過ごした私立病院、現在でも僕の開業するクリニックの地域中核病院であり、特に外科系の患者さんを紹介することが多いこの病院、様々な思い入れ、想い出、そして同時に僕の誇りをも持つ病院です。もともとここのOB会があることは以前から知っていました。しかし当初はその会員になる基準が厳しく、10年以上勤務していなければ入会資格はありませんでした。だから僕には資格なし、しかし最近会員の減少とともにその存続に危機感を持ってなのか、勤務年数の制限は廃止されて晴れて僕にも資格ができ、入会をしてから初めての参加となりました。
 もともと僕は大学卒業後、自分の大学の附属病院の外科に入局しました。2年の前期研修が終わり、3年目に救命救急センターや病棟に配属され、辛いながらもドンドン知識や技術を吸収し、医師として最も急速に成長している時期でした。ある日、今の僕のクリニックで当時開業していた父から勤務する大学病院に電話が入り(当時は携帯電話がありません、ポケットベルのDual callがようやく普及してきた頃でした。)、「大学病院を辞めてM病院へ移れ、これは親父の命令だ。」と言われました。学位を取るためのテーマも決まり、ようやく上司にも一生懸命やっていると認められ、これからと云う時でした。いろいろもめはしましたが、結局僕は大学病院を退職し、仲人までしてくれた主任教授、ようやく僕を可愛がってくれ始めた上司(最初は結構虐められました。お前が一人っ子であることが気に喰わないとまで云われました。)、一緒に勉強してきた同級生などに不義理をし、別れることになりました。もともとM病院は僕の父親も出身である病院、我が親父も我儘な人間で、当初卒業した大学病院の産婦人科に勤めていたところ、上司をぶん殴って医局を飛び出し、1年間船医をしてほとぼりを覚まし、そのM病院の外科に勤め始めました。その産婦人科教室では手術中に止血鉗子で手を叩かれるのだそうです。それがものすごく痛いのだと親父から酒の席で聞かされたことがありました。僕がM病院に移籍して1年半後、父は他界しました。浴びるほど酒を飲んでいた親父は40歳にして肝硬変の診断が下り、59歳で他界しました。後にして思えば、もう先が永くない自分の命を悟って、僕に患者を紹介できるように強引に移籍させたものです。M病院ではようやく胃癌や乳癌の執刀も任されるようになり、外科医としての下積みが終わり、これから正にメスを持って外科医として成長する矢先、開業医としてむしろ内科に徹するような人生の大転換を迫られた時期でした。だから我儘な親父に翻弄された半生と亡き父親を恨んだ時期がありました。そうして開業して26年、現在に至る訳です。親しい先輩には後に「お前がM病院に残って食道癌や膵臓癌のでかい手術を経験して、今のお前に何の役に立つんだよ? お前の親父は良い時に死んだんだよ!」と云われました。或いはそうなのかも知れません。
 さて、話をOB会に戻します。色々と考えるところがありました。まずは訃報を聞きました。当時のM病院手術室の婦長さん(今では看護師長と云います)、すごく僕に良くしてくれました。未だ若くして亡くなられたこと、本当に残念です。こんな想い出があります。開業して間もなく、やはり大学病院で疲れ果てた若い看護婦(今は看護師と云います)が当院の募集広告を見て応募し、半年だけ勤めたいと言うことで僕も了承して彼女を雇い入れました。元々彼女は手術室の`機械出し`(手術室で医師から「メス。」と云われたらメスをバシッと医師の手に渡す、あの役目です。)をしたかったとのこと、機械出しはナースの花形、自分の思うようには勤務出来ないのがその世界のようでした。他の大学病院へそんな希望も出したところ、「手術室勤務か病棟勤務か決めるのはこちらだ。」と云われ、泣きながら帰ってきたこともあったそうです。彼女が当院へ勤め始めた時は敢えて半年だけの勤務希望であることの理由は問わず、そのうちによくやってくれる彼女とお互いに打ち解け合うようになってから、その彼女の希望を聞いたのです。「な〜んだ、そんなことか? それなら僕の親しいM病院のOpe室の婦長さんに頼んでやるよ、楽勝だよ。M病院は症例数はたっぷりあるし、今でも少ないメンツでヒイヒイ言ってるし、すごく勉強になるぜ。」そう云って約束の期限ちょっと前にその婦長さんを紹介し、結局M病院のOpe室に勤務し、彼女の夢も叶いました。彼女を連れて行った時の婦長さんの飛び上がって喜ぶ姿(本当に飛び上がっていました)が今でも忘れられません。彼女はその後7年間 M病院のOpe室に勤務し、寿退職しました。M病院のOpe室の婦長さん、そして僕に対する義理は充分に果たしてくれました。外来の仕事もよくこなしてくれた彼女を手放すのは、僕にとっては残念なところでしたが。
 OB会ではまず最初に現院長のご挨拶がありました。この院長も僕の元上司、報告を聞いて驚きました。病院全部を建て直すとのこと、実は僕が勤め始めた昭和62年当時、未だ新築間もない綺麗な病院でした。そしてその後、僕が退職してからもう一度建て直しました。そして今後更にもう一度? 結局最近30年間に3回、病院を建て直すことになるようです。当院なんか昭和46年に建てて、以降30年目に改築をしただけなのに…。もちろん地域中核病院であるから、市町村からの援助もあるでしょうけれど、今の酷い保険医療制度で、しかも多くの医師を始めとするスタッフがたくさんいるはずなのに、収支は大丈夫? と云うのが僕の本音のところです。もっとも、この病院は給料はあまり高くない…、今はどうか知りませんが、アルバイトをフルにしていた大学病院からの親父の命令での移籍時、僕個人の収入減に対してその亡き父から少し援助をもらっていたのは事実です。正直なところ、大学病院時代(大学病院の給料はわずかでしたが、アルバイトで結構稼いでいました。当時そこそこ高かったトヨタ・ソアラが頭金なしの24回払いで楽々買えました。)に比べて収入は半減しました。しかもM病院外科はアルバイト禁止でした。内科の医師はアルバイトをしていたのに。3−4年で新築は実行されるとのこと、内覧会には参加したいと思っています。
 総会での報告後、席を移してホールで懇親会となりました。実はこのOB会は医師だけではなく看護師、事務方も参加ができます。むしろ医師が少なく元看護師(今となってはおばあちゃん?)が数多く参加していました。懇親会での副院長の挨拶の中で、頷ける話がありました。この病院は医師に対しても看護師が言いたいことを平気で言うので、大学から派遣される医師の間では評判が悪いとのこと。僕自信も大学病院から移籍して看護婦に云われたことでカルチャー・ショックを受けたことがありました。外科と云う科である以上癌患者を扱い、時に(と云うよりはしょっちゅう)患者の臨終に立ち会わなくてはなりません。当時一日で死亡診断書を3通書いたなんて日もありました。自分の受け持っている患者の臨終、それには主治医たる自分が立ち会うのは当然だと思っていましたし、大学病院勤務時代は自分の受け持ち患者が今夜と云うような状況であれば家に帰りませんでしたし、夜中に車で飛んで行ったなんてことも多々ありました。しかしこの病院はそんな臨終の時でも急変の時でも、当直医師(輪番で週に1回くらいの当直が回ってきましたし、それは僕にとっては苦になるものでもありませんでした。)に任せる、そんなDryな慣習でした。でも僕は僅かな勤務期間でも自分の受持患者の急変時にはDoctor Call(もちろん僕自身を呼び出してくれと云うオーダーです。)と云うオーダーを指示書に書いていました。もっとも他の外科のベテランドクター達はポケットベルを持っていませんでした。勤め始めて間もないある日、受持のナースから唐突に云われました。「先生だけが他のドクターと違うオーダーを出されて看護婦みんなが迷惑なんです!」と。他のドクターは夜間急変、死亡時は当直のドクターを呼ぶよう指示していました。正直なところ、驚くと同時に少し失望感も持ちました。でも僕は曲げませんでした。僕の考え方に同調してくれるナースも少なからずいました。結局わずか1年半でしたが、自分の受持患者の臨終には殆ど全て立ち会ってきたつもりです。そして安置室から葬儀屋さんの迎えで出て行く時は、手術中を除いてお線香を上げて遺族に頭を下げながらお見送りするようにしていました。ある深夜、「控室にいるから出棺の時には呼んで。」とナースに頼んでおいたのですが、だいぶ待たされた挙句「まだかい?」の連絡をしたら「先生を呼ぶのを忘れていました。」とだけ云われて、そのナースからはごめんなさいの一言もありませんでした。この病院のナースは強かったです。こんなカラーに慣れるまでだいぶ時間がかかりました(結局馴染むことは出来なかったと言った方が正解です)。だからナースに僕のやり方が良く思われなかったのも事実ですが、約半数のナースは僕のやり方に同調してくれました。そんな中に未だに年賀状のやりとりをするナースもいます。そんな彼女は僕のやり方を認めてくれた、或いはむしろそれが当然だと思ってくれていると解釈しています。
 このOB会に来ていたナースのOGの中には、僕の親父を知っていると云う人もいました。恐らく御年80歳超え? 親父からこんな話を聞いたことがあります。そのM病院に勤務中、病棟である痛みを伴う患者の処置を行っていた時、その患者と下ネタの話をしていたそうです。親父は患者の痛みを紛らわせるために、そんな話をしていたそうです。しかし処置の途中で横について手伝いをしていた看護婦が「処置中に下品な話をしないでください!」と親父に云ったそうです。そこで親父は「患者に少しでも苦痛を和らげるためにこんな話をしているんだ! だったらお前が処置をやれ!!」と膿盆(処置の時に使うそら豆型をした金属製の盆)を床に叩きつけてその看護婦を怒鳴りつけたそうです。かく云う親父から看護婦を敵に廻すと仕事がやり辛くなるから、看護婦とは巧くやれとアドバイスされたことがあります。だから時々お気に入りのナースは食事などに誘っていたこともありました。この頃(昭和30年代?)からそんなカラーがこの病院にはあったのかも知れません。
 そんなこのM病院のOB会に参加して、昔懐かしく思い返すことが多々ありました。当時親しかったドクターは殆ど開業され、或いは他病院のより責任の重い部署に配属され、更にはリタイヤされ、今や親しい現役のドクターはあまりいませんでしたが、未だに手術をお願いしたり、重症管理を任せたりする関係上、この病院の発展を望まずにはいられませんでした。ましてやこの病院が新たにリニューアルすることは、僕にとっても喜ばしいことでもあります。ただこのOB会では新たに入会する会員が少なく、会員数そのものが減少し始めているとのこと、特にナースや事務方は所在を掴めずに入会を誘うことすら出来ないのが現状と聞きました。残念なことではあります。内覧会を始め、何らかのそんなM病院の催しには今後もなるべく参加しようと思いますし、今現在の自分があるのもこのM病院から大きな恩恵を受けていることも忘れないでいようと考えています。