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カルテ・レセプトの開示

 カルテの開示が叫ばれて久しくなります。マスメディアが国民の知る権利を強く訴え、それに引きずられる形で医療現場にカルテの開示が求められるようになってきました。先進的?な病院では待合室に「当院ではご希望によりカルテを開示しています。」と明記しているところが出てきているそうです。私も「見せろ!」と云われれば隠し立てして拒否しようとは思いませんが、ホントに広く多くの人が”カルテの開示”の意味を良く理解しているのか? 疑問に思うこともしばしばあります。患者のカルテが患者個人のデータであることから、自らの財産であり、自由に見ることが出来るのが当然と云う意見もありますが、果たしてそうでしょうか? 進行胃癌なんて病名がカルテを見たとたんに目に飛び込んできたらご本人はどう思うのでしょうか? 未だ家族から本人には本当の病名を云わないで下さいと云われることが結構あります。もし個人のデータを全て閲覧する権利がまかり通るなら、納税者にとって国の機密文書なんてものは存在しなくなるはずです。個人のプライバシーだけが守られればそれで良いと云うことになりかねません。何故患者に対する充分な説明ではいけないのでしょうか? 根底には医師が患者から信頼されていない? それに尽きると思うのですが。前から書いているように、確かにその信頼を裏切ってきたことがあることを私も否定は出来ません。
 私が教えている看護学校では、試験の採点後の答案用紙を生徒には見せていませんでした。しかしある年、一人の学生が”自分の書いた答案は自分で見る権利があるはず”と教務に詰め寄りました。その時に私も主任から相談を受けたのですが、私は見せてあげれば良いじゃないですかと云うスタンスで話しました。結局その後学校では答案を見せるようになり、また私もそれをネタに更に学生達が勉強してくれればと思いました。
 一方で最近になり、一部の報道でレセプトの開示を求めると云う記事が出てきました。レセプトとは我々が行った医療行為にかかる費用を点数化して支払基金に請求するための請求書のことです。当初、何故カルテのみならずレセプトまでを患者サイドで見たがるのか理由が分かりませんでした。せいぜいレセプトを見たって自分の医療費がどれくらいかかっているかしか分からない程度に考えていたのですが、いろいろな資料を読んでみると、医師の手元にあるカルテは改ざんできるが、医師の手元にないレセプトは改ざん出来ないと云うのが根拠であることが分かりました。なるほど、そこまで考えているのか? そもそも、かつては保険点数はファジーなものと云われてきました。これも時代の流れですが、ファジーなものでありながら、患者や基金からは非常に緻密な、正確なものを要求される狭間に喘いでいます。しかし今の保険医療は患者のためにとより細かくやるほど医者の首が絞まる構造になっています。例えばピロリ菌の除菌について。現在ではピロリ菌の除菌は胃潰瘍、及び十二指腸潰瘍にしか保険適応は通っていません。私は内視鏡をやりますので、実際に胃の中を覗いて、潰瘍があることを確認した人には生検をして、その生検材料を以てピロリ菌がいるかいないかを診断しています。もちろん潰瘍があってピロリ菌陽性の患者さんには治療を薦め、了解をもらえば除菌治療をします。しかし潰瘍がなく慢性胃炎だけでピロリ菌陽性の患者さんは保険を使って除菌治療が出来ないわけです。ところで、ピロリ菌感染、またその治療に関するガイドラインは、消化器専門医ではなくても除菌が出来るようにとの観点から作成されました。内視鏡を行わない、或いは行えない医師が臨床診断として潰瘍の病名をつけ、内視鏡に因らない血液による抗体検査や、尿素の有無を判断する呼気法のみでピロリ菌の感染を診断できれば、大手を振って除菌治療が保険を使って出来ることになります。では潰瘍のない胃炎だけでピロリ菌陽性の患者さんは、内視鏡をやる医者に行くより、内視鏡を出来ない医者に行った方が完全な治療ができる? これはひどい矛盾ではないでしょうか? 何故このようなことが起きるのか? それはやはり保険診療が患者の治療よりも、医療費の抑制に主眼を置いているからに他なりません。だから日本の医療がドンドンおかしな方向へ行ってしまうわけです。
 またレセプトにおいては、患者の診療内容が全て把握できるものではありません。例えば老人保険における”まるめ”と云われる請求方法、これは月に何点と定めて、その患者さんに対して行った診療行為が殆ど全て包括されるもの。血液検査をやっても、腹部断層撮影をやっても、はたまた内視鏡をやっても(これには赤字でほとほと泣いていますが)、通院にて処方箋を持っていく患者さんと同じ内容なのです。また背中に二つの皮膚腫瘍があって、二つとも同時に切除しても一つ分の手術料しか取れません。カルテには背中の皮膚腫瘍が2ヶと記載され、レセプト上には1ヶと云う表現になります。
 より診療を効率化させるために私は今も当診療所内で電子カルテ化する事を模索しています。いくつか電子カルテソフトの資料も読みましたが、その中に訂正、上書きが出来ないものと云うのがありました。我々にセールスするための資料ですから、説明文には書き換えられないことによって、より開示したときの信憑性が高くなると謳っていましたが、まあそれを読んだときには「冗談じゃねぇよ!」と思いました。
 かつて転居により当院への通院が出来なくなる旨患者から聞き、「それでは今までの経過、データを含めて紹介状を書きますから。」と云ったところ、その患者はカルテをよこせと云います。我々はこのケースのように、或いはより専門の医師、或いは更に検査や手術目的に設備の整った大病院等他医へ紹介するとき、診療情報提供料と云う点数を請求して診療情報提供書を書きます。話を聞いてみるとその患者には特に意図はなく、気軽な気持ちでカルテをと云ったようですが、未だそのころはカルテをよこせと云うことは、こちらの診療行為に疑義があると判断すると云う意味のことをその患者にトクトクと説明しました。この患者の目的は診療情報提供書で充分賄われるものでした。この時は少し考えさせられましたが、やはりマスコミの書くことを鵜呑みにして、本来のその意味をよく理解していない人がそのように口走ることに些かの不安を持ちます。幸いにして、未だ私は患者からカルテ、レセプトの開示を求められたことはありませんが、もし求められれば応じるつもりではあります。しかし、医者と患者の関係には多少なりともヒビが入ると考えています。常日頃から充分なインフォームドコンセントを実施していると自負しているからこそそう思うわけですが。
 結論としての私の私見です。私個人は見せろと云うものを拒否するつもりはありません。しかし、患者自身のデータをありのまま直ちに見せるとするには、日本においてはあまりにも廻りの環境がお粗末ではないでしょうか? 諸外国の如く、病名告知について充分なコンセンサスが取れているとは到底思えないし、もしそうするならもっと社会全体の意識改革、或いはホスピスの充実、そして曖昧な緊縮に主眼を置いた健康保険の変革等まだまだお上にやって貰わなければ困る事態が残っているように考えます。知る権利を主張するなら、知った後の個人の責任も充分理解してもらわなければならないと思います。私から見れば未だ時期早尚のように思うのですが如何でしょうか? また保険診療も矛盾だらけ。何故改善されないか? それは文句を云うべき医者の相対数がそのままで良いとする人+関心のない人+全く何も知らない人の合計数に対して圧倒的に少ないからです。しかも医者の代表も力がなくなってきたから。医療に株式会社を参入させることによって、国は苦しくなった国民皆保険を潰そうとしているのではないか? 私はそう考えていますけれどね。