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バスケットシューズ

 ごく最近のある日、新宿駅のホームからの階段を下りていた時のことです。20代前半くらいの若い男の子が、新品でピカピカのアディダス・スーパースターを履いて歩いていました。これって元々はバスケットシューズなのですが、実は私にはこの靴にすごい思い入れがあってこのColumnに書く気になりました。
 私は中学校時代にはバスケットボール部に所属していました。3年間、殆ど練習を休んだことはなく、青春の1頁に刻み込まれている大切な想い出です。私が1年生当時、バスケットシューズと云えばオニツカ・タイガーしかありませんでした。それのハイカットとローカットしかなかったのですが、私は足首がきついのがイヤでローカットのものを履いていました。しかし、暫くして顧問の先生から危険だから巧くなるまではハイカットのものを履けと指導され、買い直した(買ってもらいなおした?)ことを覚えています。何故か1年生の時から3年生の試合にも出してもらえるようになり、少し巧いんだと自惚れが始まった頃、そろそろ他人とちがうバスケットシューズを履きたいと云う衝動に駆られ始めました。当時、日本で唯一西部デパートの渋谷店と池袋店でのみConverseのバスケットシューズが売り出されました。オニツカ・タイガーのハイカットが2800円の時代に、Converseはハイカット、ローカットともに5300円と倍近い値段でした。それでも(自分の小遣いでか、親に買ってもらったかは忘れました)やはり目立ちたがり屋の性格はこのころからあったようで、しかも巧いと自惚れるままConverseのローカットのシューズを西部デパートの渋谷店で買ってきました。当時としてはConverseのソールはものすごく柔らかく、これを履いてからオニツカ・タイガーを履いたらまるで硬い下駄を履いているような感覚でした。そうして普段の練習ではオニツカを履き、試合ではConverseを履いていました。その頃はバスケットボールの雑誌と云うのは”バスケットボール・イラストレイテッド”(とカタカナで書いてありました)しかなく、その中の写真で日本の実業団の選手が見慣れないバスケットシューズを履いているのに気付きました。もちろんローカットで、白い靴に黒の3本線が入っていました。斜め後ろから見るともの凄く格好いい靴、それこそがアディダス・スーパースターだったのです。日本では実業団の選手しか履いてはいけないような感覚で、当時は日本鋼管の谷口選手と日本鉱業の阿部選手が日本の花形でした。特に谷口正朋選手はミドル~ロングシュートが正確で、オリンピック(何処で開催されたかは忘れました)でもなみいる外国人選手の中に入って大いに注目されたものです。あの靴が履きたい、でも履いてはいけない、3年生になってから、行きつけのスポーツ用品店で仲良くなっていた社長さんに頼んで見せてもらったことがあります。「ああ、これがスーパースターか?」、燦然と輝く白い皮の靴に自惚れを持ったバスケット部のキャプテンは溜め息をついていました。私は中学は私立に通っていましたが、毎年夏休みに私学戦の新人戦(2年生まで)、秋に現役戦(3年生)が相次いで行われましたが、私の学年は新人戦で準優勝(決勝で大差で負けました)、現役戦決勝トーナメントで全敗し、4位になりました。その現役戦の時に、他校の数人が何とアディダス・スーパースターを履いていたのです。「何だ? 中学生でも履いて良いのか?」と知った私はそのトーナメント中にまず遠慮してグリーンのベロアに白い3本線の入ったアディダス・グリーンスター(6600円)と云う靴を買って参戦しました。しかし何故かその靴は中のクッションのラバーが試合中にボロボロになって出てきてしまい、しかも3本線のうちの2本がアッと云う間に切れてしまいました。靴が2~3試合でダメになって相当ショックを受けていたのですが、試合の後に仲良くなった他校のキャプテンが「アディダスの3本線は足のサポーターになっており、これが切れたらもう価値がない。たった数試合で切れてしまうような靴は不良品だから、お店に持っていけばすぐ新品に取り替えてくれるはずだ。」と教えてくれました。一度使った靴を新品に替えてくれる? そんなはずね~だろ? と思いつつダメ元で買ったお店に友達からそう云われた旨話しました。するとこちらが「エッ!?」と思うくらいいとも簡単に新品のグリーンスターを渡されました。しかし、中学生が履いてはいけないと思っていたスーパースターを他校の中学生が履いているのを目の当たりにしています。そこで店員さんに出来たら差額を追加するから憧れのアディダス・スーパースターにしてくれないか? と尋ねたところこれまた簡単にOKが出、1400円を追加して晴れて中学生の私はアディダス・スーパースターを手に入れました。公式戦には間に合いませんでしたが、文化祭の招待試合にて初めて憧れのアディダス・スーパースターを履いてプレイをしました。ホントに自分の足が速くなったような感覚に陥ったのを今でも鮮明に覚えています。そして相手校の数名もスーパースターを履いていました。
 とこんな思い入れがある靴なのです。しかしそれから30年近く経った今やアディダス・スーパースターはスニーカー感覚、踵を潰して履く(この靴には踵に硬いシェルが入っています)など、私の感覚とはかけ離れた使われ方をしています。実は外履き用に私自身も今1足持っているのですが、履きやすい代わりに昔の想い出が却って切なさをもたらします。やはり時代は変化してきたのでしょう。今やナイキ、プーマ、リーボックとバスケットシューズ(私の中学当時はバッシューと云いました)は様々な選択肢が出てきましたが、中学、高校とオニツカ・タイガーだけでプレイするのが普通だった時代です。私が高校生になってからアダックスと云う国産メーカーがアディダスタイプとコンバースタイプの2種類の靴を発売しました。高校に上がっても(私はエスカレーターでした)バスケットボールを続けたかったのですが、私の母が保護者会の際に私の高校のクラス担任の先生から「医学部受験を目指すなら運動部に入れてはいけない。」と云われ、それが私の父に伝わり、結局私はバスケットボール部に入ることは出来ませんでした。先輩達からどうしてバスケット部に入らないのか? と責められましたが、私は本当のことを云えませんでした。高校の授業が終わった放課後、都心の予備校に通って補修を受けましたが、そのうちに運動部に入って活躍する同級生を見ながら私自身段々狂い始め、挙げ句の果て予備校に通っているような顔をして新宿の歌舞伎町を(制服のまま)ほっつき歩くようになりました。今現在も歌舞伎町が好きで、この街によく飲みに出掛ける所以もここにあると私は考えています。その後段々成績は落ち始め、結局2年も浪人する羽目になりましたが(高校でバスケット部に入っていたら1浪で済んだ?)、とりあえず医者になることは出来たわけです。今や若い人が気軽に履いているアディダス・スーパースター、私にとってはリーガルやフェラガモよりももっともっと価値のある靴なのです。今や中学生でもナイキ・エアーの最高級品を履いているようですが、時代はドンドン流れていますね。人の靴を見かけて、ふとこんなことを思い浮かべました。